All For You

What you don't know is what you are to know

まさかとは思いますが、この『PPAP』とは、あなたの想像上の

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存在にすぎないのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、あなた自身がPPAP失調症であることにほぼ間違いないと思います。



「a pen」は本当に存在するのか


「I have a pen」この言葉が持つ意味は一体何なのでしょう。


「私は”ペン”の存在を認知している。”ペン”は私の手の中に位置している。」ということでしょうか。


では、「私」はどのようにして「ペン」の存在を認知したのでしょうか。


そもそも「存在」とは何なのでしょうか。


かつて哲学者バークリーは「存在とは認知されること」と説きました。


「気付かれなければ存在しない」のです。


幸運にも「私」=「I」はここで「ペン」=「a pen」を知覚しています。


「私」の視覚、触覚、あるいは聴覚が「ペン」の存在を肯定しています。


じゃあ「a pen」は存在すると言ってしまっていいのだろうか。



ちょっと待って欲しい。



バークリーの考えでは「私」と「私の知覚」を絶対的なものにしています。


「私」の「存在」は絶対的真であり、「知覚」と「存在」には疑いようのない繋がりがある、と想定しています。


いつから「私」は「存在」していることになったのでしょうか。


いつから「知覚」は疑いようのないものになったのでしょうか。




「私」は「存在」するのか


「私」の「存在」は確かではない。ゆえに「私」の「知覚」もまた確かではない。


哲学者デカルトは言いました。「コギト・エルゴ・スム」


有名な「我思う、故に我有り」です。


デカルトは全ての「存在」を疑いました。


というのも、目の前に広がる光景でさえ、「私」の「知覚」を経由して「認識」している。


「私」の「知覚」がそもそも疑いうるものなら、目の前の光景の「存在」も疑いうる、からです。


デカルトは疑う余地のあるものは全て否定しました。


ここにおいてデカルトは、「『私』が『ペン』を『知覚』していることは、『ペン』がそこにあることには一切繋がらない」と考えます。


「私」が「知覚」していることは「ペン」の存在証明にはならないのです。


全てを否定して、彼に残ったのは「どれだけ『存在』や『知覚』が疑いうるものだとしても、『私が考えている』という事実だけは紛れも無い真である」、という結論でした。


また彼はこうも考えました。「『私』と『私』の『存在』が不完全であるにも関わらず、『神』という完全で無限の観点が持てるのは、それ自体が『神』の存在証明である」と。




「神」は「存在」する


このようにして証明された「神」は絶対の存在であるので、「神」に関する「思索」は真であると考えられます。


「私」の「知覚」する能力は「神」に与えられるが故に、「『知覚』できるものは真である」という規則が成り立ちます。


そうして「私」は「私の存在」を「知覚」=「存在」を肯定するのです。


しかしここに以前の様な不確実性はありません。


「私」の「知覚」は全てのものの「存在」を証明します。


故に「ペン」は存在します。




最後に


これがPPAP的存在証明です。テストに出るので覚えておくようにしましょう。